6月20日(土)10時より、当館講堂にて「歴史講座」を開催しました。今回の講師は、福岡大学人文学部・古澤義久先生で、テーマは『朝鮮民主主義人民共和国における邪馬台国論』です。
『邪馬台国』の所在地を巡っては幾多の論争があり、わが国では「国民的関心事」と呼んでも差し支えないほどです。そこで今回は、わが国では殆ど知られていないのですが、「朝鮮民主主義人民共和国」でも「邪馬台国」が論じられておりまして、特に1960年代から一貫して「邪馬台国九州説」が主張され、その中で「筑後山門説」が唱えられた事も有ったとのこと。更には、日本国内の論争に影響を与えたのか、否かについても触れて頂きました。
『北朝鮮』の「邪馬台国論」を読み解くうえで、金錫享の『分国論』が重要とのことで、今回は ①邪馬台国筑後山門説の概要 ②金錫享の「分国論」の概要 ③「北朝鮮」の邪馬台国論の特質についてお話をして頂きました。
【邪馬台国筑後山門説の概要】この説は、江戸時代の新井白石『外国之事調書』で述べたことに始まります。筑後山門説の根拠としては、「高良山と女山(じょやま)の神籠石」とした学者さんがいたり、この「女山神籠石」を魏志の中の「城柵厳設(じょうさくげんせつ)」とみえる「邪馬台国の城」と主張する学者さんがいたり、「女山神籠石」について、「女山はもと女王山と称したが後世の人が憚(はばか)って女山に改めたとして、卑弥呼の居城』とする学者さんがいたりして、「女山神籠石」が卑弥呼の居城として有力な候補地とも言われたそうです。一方で、「女山は城山(じょうやま)が由来で、女王山ではない」との反論があったり、「神籠石」について、武雄市おつぼ山神籠石と山口県大和町石城山神籠石の発掘調査で、7世紀中ごろの築造年代を推定し、「邪馬台国の時代ではない」との説も。「女山と女王を結びつけることは全くの付会(こじつけの意)に過ぎないし、何よりも神籠石の築造方法を弥生時代の他の遺構と比べるとき格段の差があることから、神籠石を弥生時代や邪馬台国に結び付ける考え方は全く成立しない」との厳しい批判があり、近年「邪馬台国と神籠石を結びつけるのはやめよう」との提言もあり、みやま市一帯が考古学的にも「弥生時代には瀬高町を中心に国が存在したのは間違いないが、邪馬台国であるとは言えない」と。
【金錫享(キムソッキョン)の『分国論』】1963年1月に刊行された「歴史科学」に掲載された『三韓三国の日本列島内分国について(日本語訳)』という論文で示されたもの。内容は大きく二つに分かれます。ひとつは『4~5世紀に倭が朝鮮半島南部を経営したという事は認められない』という事と、『「分国論」と呼ばれる通り、朝鮮半島からの移住民(渡来人)が。日本列島の各地に、朝鮮半島本国に対する分国と呼べる小国をつくり、日本列島の国家形成に主体的に関わった』というものです。
「任那日本府説」の根拠の一つである「神功皇后三韓征伐説話」については、神功皇后の存在自体が捏造で、また、根拠の一つ「広開土王陵碑の碑文」については、広開土王の治世21年間の一時期のものに過ぎないと主張。そして、「倭の五王」のうち「斉」に「安藤将軍」と称させたことや、「武」に「・・・安藤将軍倭王」を授与したことから、日本が朝鮮半島中南部以南の地域を支配していたとみる日本の見解を批判。「6世紀頃までは、日本はバラバラで統一国家ではない。(日本が経営したとされる)朝鮮の各地の国々は、実は朝鮮からの渡来人が日本に作った植民地」という説を唱えるもの。
この「分国論」に対する日本学会の反応についてですが、「金錫享の説」は突飛なものだったので、驚きや戸惑いをもって迎えられ、 否定的な意見が席巻しました。日本学会は、1945年の敗戦によって、「皇国史観」から脱することになりましたが、戦後にあっても「古事記」「日本書紀」の記載や広開土王陵碑から「古代日本が4世紀末には朝鮮半島南部を支配、経営、勢力下においた」などとする見解が見られました。これに対しては、在日朝鮮人学者・朴慶植は「日本書紀の記述を過大評価した結果である、倭による朝鮮半島南部支配は歴史的事実として認めがたい」と主張。「分国論」の根拠として、本国に対して分国とも呼べる小国の存在を証する遺跡として、朝鮮式山城があり、高良山・女山・鹿毛馬・御所谷・雷山・石城山などとされる。この「分国論」が正しいかどうかとは別に、日本の古代史研究に少なからず影響を与えたことも事実です。「分国論」の一つの柱である「4~5世紀に倭が朝鮮半島南部を経営したということは虚構である」ということは、それまで当然と考えてきた「任那日本府説」を否定する契機となりました。また、二つ目の柱である「日本列島の各地に分国をつくった」ということは、そのまま認める研究者は殆どいなかったが、しかしながら、こちらも従来の「帰化人」という捉え方から「渡来人」という捉え方に変化したことに繋がりました。
「北朝鮮」では「邪馬台国の所在地」については、一貫して「北部九州説」を採用しています。その理由は、朝鮮半島南部に倭が進出したとされる4~5世紀においても、統一的な政治勢力が存在しなかった日本列島にあっては、当然前段階の弥生時代終末期に広域にわたる統治体は存在しえなかったことに求められると。そうした意味では「北朝鮮」における「邪馬台国論」とは「任那日本府」説否定と常に表裏一体であったといえ、金錫享の「分国論」に根ざした立論といえる。また、他方、「邪馬台国畿内大和説」が「任那日本府説」に容易に繋がるであろうことが指摘されてもいます。とはいえ、これらの多々の主張をもって「邪馬台国の所在地」が特定されるものではありません。前述したように、「北朝鮮」における研究が、日本学会の研究に一定の影響を与えたことは間違いないようです。
【参加者のアンケート・・・一部抜粋】
●北朝鮮でも邪馬台国が論じられたことを知り、とても興味深く話を聞くことができました。2時間があっという間に感じました。帰ってからじっくり資料に目を通します。
●邪馬台国論を改めて考える機会を得ました。(色々な学説を学びました)
●北朝鮮の古代史の見方を初めて知りました。興味ある考え方です。地形的に見て、北部九州の国が大陸や朝鮮半島に近く、交易できたと思います。
●生きて動いている歴史論争の生々しい解説は、わくわくする楽しさでした。古澤先生の話は何度聞いても面白いです。
●今日の話題は面白かったです。卑弥呼・邪馬台国・古代史を学ぶ人のロマンです。色々な地理・地名、知った名前が出てきて面白かったです。つい引き込まれました。
●非常にわかりやすく話して頂き楽しく聞くことができました。今後も引き続き開催してほしいです。
●邪馬台国について興味のあるお話をありがとうございました。北朝鮮の学者がこういう風に考えているのは驚きです。近くの国、小説の話も面白かったです。
●歴史講座、いつも楽しみにしております。ありがとうございます。熊野三山・伊勢神宮・神倉神社・阿須賀神社 近畿地域との九州、韓国(古代・中世)とのつながり、また、鉄を通しての日本の歴史的な流れなど、本日の話でも紀元前後の境目あたり以前は、日本国が小国としてバラバラに存在していたのでは?の見解も面白かったです。
●北朝鮮の学者が邪馬台国を深く研究されていることに感心しました。とても興味深いお話施した。日本の学生ももっと歴史に関心を持ってもらいたいと思いました。