今年度5回目の『歴史講座』を、1月17日(土)10時より、当館講堂にて開催しました。福大考古学研究室より、堺哲平さんによる『平家と大宰府』、北野篤央さんによる『日中戦争に於ける和平工作と新政府樹立工作』の発表です。お二人とも「大学院1年生」です。
【平家と大宰府】 主たるテーマは「なぜ平頼盛は、大宰府に来たのか」というもの。頼盛は、平清盛の「腹違い」の弟。「平家」は清盛を棟梁として、一門が朝廷の重職に就き、平安時代末期に栄華を極めました。治承3年(1179)11月、清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、平家政権のはじまりとも、そして寿永4年(1185)4月、源頼朝の弟・義経に敗れ、壇之浦にて滅亡したと言われています。
12世紀には、大宰府長官(大弐)は現地に赴くのではなく、京都にいるのが通例で、清盛も在任中は京都に。しかし、頼盛は、永万2年(1166)7月に大宰府長官に就き、当時異例の現地赴任。頼盛は母方の縁で源頼朝とも近く、平家では、清盛の後継者である重盛・宗盛以上の軍事力をもち、源平合戦には殆どかかわらず、平家滅亡後も存命で、鎌倉政権の頼朝や大江広元らにも厚遇されたとのこと。
1165年に二条天皇が崩御、その皇子・六条天皇が1歳で即位。翌年、摂政も死去。清盛は、当初から二条天皇の親政を支えつつも、その後、後白河院の子・後の高倉天皇擁立のため後白河院と提携。頼盛は、母方の人脈から、高倉天皇ではなく六条天皇を支持する立場で、後白河院の逆鱗に触れたとも。ただ、清盛と完全に分裂しているわけでもないが、頼盛の反発が清盛に不信を抱かせ、これらのことが「大宰府に来た」背景とも考えられ、やがて長官の職を解かれたとのこと。とはいえ、頼盛の軍事力が、九州における「平家の重要な勢力基盤」づくりの一助となったと言えそうです。
【日中戦争に於ける和平工作と新政府樹立工作】 日中戦争は、1931年9月の日本軍による鉄道爆破事件(柳条湖事件)に端を発する「満州事変」から1945年8月の「終戦」までの15年間ですが、とりわけ1937年7月の「盧溝橋事件」より、本格化したと言われています。今回の発表は、この盧溝橋事件勃発から数カ月間の、日本軍部及び日本政府の「画策」を時系列に整理したものです。従って、その後の「国家総動員法」の制定や、大政翼賛会(1940年10月発足。立憲政友会・立憲民政党・国民同盟・社会大衆党の政党が新たに、戦争遂行のために作った政治結社)による「国会機能不全」状態、「狂気」ともいえる軍部の暴走についての言及はありませんので申し添えます。
1937年7月7日、盧溝橋事件発生。当初、参謀本部で第1部長であった石原莞爾は「不拡大」を指示し、近衛内閣も「不拡大・現地解決」の方針を臨時閣議で決定。政府声明として『本事件は中国側の武力的抗日行為・現地治安維持のため内地師団を派遣・本事件を北支事変とする・軍事行為は現地停戦交渉を妨害しない範囲で』を発出し、あくまで「居留民保護・不拡大」が前提であった。しかし、内地師団派遣の背景には、すでに陸軍内部の派閥闘争(不拡大派vs拡大派) があっており、前述の「不拡大派」の論理は『全面戦争は不可・華北分離を行えば日中関係の修復は絶望的・対ソ防備温存のため、対中で、全面戦争は不可』。一方、「拡大派」の論理は『中国は近代国家として成立していない・中国は華北に一撃を与えれば降伏する・華北を蒋政権から分離し、防共親日満政権を樹立・華北の現地資源を占有し対ソ戦の後方基地化』というもので、後に参謀本部内では、圧倒的に「拡大派」が主流に。
同年8月9日、現地陸戦隊員が中国軍に射殺される事件発生(第2次上海事変)。以後、両軍による戦闘が開始され、日本政府は、先の「不拡大方針」の破棄を決定。「国交調整案」なるものを作成し、「第三国の仲介による和平交渉の実施」を決め、広田弘毅が和平斡旋を依頼、結果、ドイツが応じ、トラウトマン駐華大使がその任に。和平案は『中国の満州国承認・日満支防共協定締結・抗日行為の禁止』であった。11月、広田外相がトラウトマン経由で、蒋介石に決議事項を伝達するも受け取り拒否するも、12月には、対日制裁・事変解決を期待する9か国会議が無期限延期となり、広田の和平案を交渉の基礎とすることで合意。とはいえ、その頃、日本軍は首都南京に迫っていたとのこと。1937年12月13日、南京陥落。関東軍(現地軍)は、華北に蒋介石政権とは別の「親日満防共政府」樹立を目標に、「新政府樹立」構想を企図していたが、日本政府・陸軍中央もその流れに。
蒋介石による「和平案の返答」は、南京陥落直前に日本政府へ伝達されたが、それに対する回答は、12月21日に閣議決定されたが、加えて蒋介石政権にとって到底受理できない内容が追加【①華北・内蒙古における新政府樹立 ②華中占領地の非武装地帯化 ③日本軍の保障駐兵 ④賠償金の請求】された。ここに南京陥落に伴う、日本政府の強硬化が見て取れる。政府は、参謀本部の一部の反対(蔣介石政権との交渉継続を主張し、トラウトマン工作の成功に期待するもの)があるも、蔣介石政権の中国政府としての役割を否認し、日本が樹立した「新政府」と和平交渉を行うことに決定した。以後、新中央政府樹立工作が国策として実行されていったとのこと。
この発表は、盧溝橋事件を契機として、日本政府の対中工作の変容(強硬化)の数か月間の状況についてのものでした。その後の日中戦争の「泥沼化」、東南アジアへの侵略、米英との太平洋戦争等で、国民生活も筆舌に尽くし難い「くらし」を強いられたことを申し添えておきます。
【参加者のアンケートより・・・一部抜粋】
●今日はありがとうございました。丁度、吉川英治の新平家物語を読んでいて、頼盛の優柔不断のどちらつかずの立場を、清盛は何度も許していることが書かれていました。能の演目にも数々あり、面白いですね。中国の日中戦争のお話しも、又、歴史をさかのぼって、講座を企画してください。中国の秦・漢時代の歴史、特に文字の歴史、金文、蒙書、石破文などを学びたいです。
●結果論であるが、日中戦争に関する日本側の対応は、歴史的に見て全く駄目と考える。
●文献史学、細かい事や人物が実際に存在した感が面白いです。又、楽しみにしています。岩戸城、九州北部を指す地名として出した?のが那珂川市、すごいと思った。岩戸城、柏原と関係ないか?
●平安時代の不明が多い。政治の流れ、参考になった。地元福岡の奈良・平安時代の中央との関係の流れ、説明企画して欲しい。鎌倉時代の御家人と時代の流れ。平安→鎌倉→江戸までの官職の流れについて知りたい。
●堺氏、活舌が良く聞き取りやすかった。内容が多すぎて、発表が難しかったのでは?北野氏、短期間のうちに和平案が大きく変わっていったのが良く分かった。テーブルがあるとすごく楽、今後もテーブルを望みます。
●「平家と大宰府」今まで知らなかったことが、いろいろ分かって、興味深くてとても勉強になった。「日中戦争に於ける和平工作と新政府樹立工作」あまりなじみのない時代の事で難しかったけれど、勉強になりました。NHKドラマ「坂の上の雲」を観たので、分かるところもあって良かった。