2024年6月11日火曜日

歴史講座がスタートしました‼

今年度第1回の歴史講座を、6月8日(土)10時より当館講堂にて開催しました。今回は、初めての試みで、『古墳時代と大平寺古墳群』『大平寺址』について第1回では座学、第2回(7月13日予定)では、大平寺古墳群と大平寺観音堂周辺の現地調査を計画しました。校区内の遺跡等でもあり、柏原小学校を通じて、子どもさんにも呼び掛けてのとりくみです。

大平寺古墳群について・・・ 古墳時代は約250年~700年代とのこと。大平寺古墳群は、およそ550年~700年頃(古墳時代後・終末期)に使われていたようで、この時期は前方後円墳は少なくなり、円墳が主流とか。全部で7基あり(うち3基は消滅)、石室まで残っているのは「大平寺6号墳」。各地で石室が壊されている例が多く、福岡城の城壁に利用されたとか。6号墳の石室は畿内系石室と呼ばれ、福岡県では油山以外にはほとんど確認されていないとのこと。6号墳の石室に入ると、左壁上方に赤い土が詰めてあって「仏様」が作られています(江戸時代のものといわれています)。また、縄文・弥生時代の土器は、野焼きで作られていましたが、古墳時代には大陸からの『渡来人』が伝えた技術により、窯で焼くように。こうすると、耐水性があり水漏れがない土器(須恵器)となり、古墳の副葬品の多くを占めるようになったそうです。当時の家は、4本の柱を持つ竪穴住居で、カマドが取り付けられていました。弥生期までは、コメは「お粥」にして食していたそうですが、この時代には、土器の底に穴をあけて、底に布を敷きコメを入れ、その下に水を入れた釜を沸騰させてコメを蒸して食すようになったとのことです(甑)。

大平寺址について・・・文献資料としては、江戸時代に作成された『筑前国続風土記』『筑前国続風土記附録』『筑前国続風土記拾遺』のみに記されているだけで、寺院遺構は確認できていないそうです。現在話題になっています「福岡城に天守閣があったのか、なかったのか」論争同様に、実在の有無は明確ではありません。中世の阿弥陀如来板碑(いたひ)、梵字板碑が残っていますが、創建年代も不明とのことです。12世紀末から少弐氏支配期後、渋谷氏支配の14世紀頃に、大平寺創建か?と。後に大内氏・大友氏支配へと移り、1578年頃龍造寺氏により焼き討ちされ没落へ、と。

鎌倉時代、花畑小周辺に千葉胤鎮の治める九州探題(九州を収める役所)があり、大きな館があったので『屋形原』という地名が今なお。また、黒田藩2代藩主黒田忠之はこの地に隠居し、九州探題の館を修理して使い、また、忠之は沢山の花畑(はなばたけ)を作って暮らしていたことから、「花畑(はなはた)」という地名になったとか。




参加者のアンケートから(一部抜粋)・・・【本日は子どもさんも参加ということで、非常にわかりやすく解説いただき、ありがとうございました。現地見学も再確認できてよいと思います】【毎回興味深く拝聴させていただいております。大平寺古墳の説明、再確認しました。大平寺の遺構か何か発見できればと思います。中島古墳群(やまもも会館の奥)についてですが、今、遺跡部分を含んでいると思いますが、開発行為の看板が掲示されています。調査が必要と思いますが、福大で調査されるのでしょうか】【柏原地区に関するお話で、非常に関心があり、又わかりやすく説明頂き大変参考になりました。今後もこのような身近な関係を取り上げた内容のものをお願いします】【何回も聞いていたつもりの大平寺古墳でも、少しづつ新しいことや文言が出てきて興味がわいてきます。知らずに遊んでいた物や場所が、もうひと昔になってしまい、時の経つのを感じますね】【大きな石臼は桧原3丁目、桧原四つ角の東側大神邸の庭にもあります。今回、絵の写真で分かりやすかった。】【こふん時代のことが分かってうれしかったです。こふん時代の人のことについて分かったのでうれしかったです・参加の小学生】

7月13日(土)『大平寺古墳群・大平寺址』フィールドワーク

10時集合・・・旧・柏原公民館