7月19日(土)10時より当館講堂にて、今年度2回目の「歴史講座」を開催しました。今回は、福岡大学人文学部歴史学科4年生の松岡薫さんより「古墳時代の須恵器」、島田聖さんより「古墳時代の須恵器 甕」と題して研究成果を発表して頂きました。同大助手の大重優花先生の助言もあって、古墳時代の須恵器について多くのことを学ぶことができました。
「須恵器」は、野焼きで焼成した「土師器」と比べて、窯で焼成するので保水性に優れ、水がめや酒入れ に利用できたとのことです。「須恵器」は西暦400年前後である古墳時代中期初頭に生産が始まった焼き物で、技術は渡来人によってもたらされました。窯を使って1000度以上の高温で焼成され、灰色で硬い。一方、「土師器」は、弥生土器の流れをくむとされ、野焼きで低温。茶褐色で柔らかいとされ、大量消費用の普及品として煮炊きや食器として使われたそうです。また、須恵器も食器としての利用も多く、「置食容器(おきしょくようき)」「手持飲用(てもちいんようき)」があり、食べ方によって利用できる食器の生産があったことも分かります。
須恵器窯には、土の中にトンネル状に窯体(窯全体)をくりぬいた「地下式」と、地面を約1mほど掘り下げて、それを基盤として地上に天井部を築く「半地下式」とがあります。この須恵器の技術は、5世紀に韓半島からもたらされたとのこと。北部九州では5~6世紀、筑前地域(福岡県北西部)、筑後地域(福岡県南部)、豊前地域(福岡県東部と大分県北部の一部)で須恵器の生産が行われ、肥前地域でも「神籠池古窯跡(こうごいけこようせき)という5世紀後半の窯跡が確認されているそうです。各地で生産が続くなか、大和王権の確立のなかで、現在の大阪府に日本最大の窯跡群「陶邑(すえむら)」ができて、生産の技術等、進化を遂げて各地に技術移転が見られるとのことでした。
「甕(かめ)」と「壺(つぼ)」との違いは、口の大きさの違いだそうです。壺は、口がすぼまっていて胴が膨らんだ形状が特徴で、外気に触れる面が少なく中身を長期保存できるとされ、甕は、口が広く胴の3分の2以上のものをいうとか。弥生時代には、日常の生活に欠かせない器として、食糧を保存する壺、コメや野菜を煮炊きする甕、食事をよそう鉢や高坏(たかつき)など役割ごとに土器を使い分けができたようです。弥生土器の甕は殆ど無文様で、煮炊きという用途が優先されたためと考えられます。また、墓地としての甕棺の利用があります。甕棺墓の始まりは、今からおよそ2400年前・弥生時代早期といわれ、当初は乳幼児の墓としては日常容器の大型壺が使われ、成人用としては木棺墓、土抗墓、支石墓がありました。弥生時代前期中頃には、成人も甕棺に埋葬されるようになったとのことです。理由は、甕棺に埋葬することにより骨の残りがよいことから、死後の再生を願うことにつながり、また、土器製作技術の発達によるものといえます。
因みに、埋葬の手順ですが、①墳丘の頂部から2m程穴を掘り、さらに掘り下げた穴から横穴を設ける②掘った横穴に甕棺をひとつ据え、甕棺に死者を埋葬③蓋となる甕棺をかぶせ継ぎ目を粘土でふさぎ埋め戻す、そうです。
【参加者のアンケートより・・・一部抜粋】
●本日はありがとうございました。柏原に住んでいて歴史講座のお話を伺う度にロマンを感じます。息子が鹿児島の女性と結婚しました。以前、縄文時代のつぼの模様が紐をよったものをつけたものが、鹿児島でも同じ模様が出て、あの時代離れた場所で見つかったとのことを思い出しました。私だけのロマンチックです。いつも楽しい話をして、いつかお昼持参で学生さんとお茶会トークなんかはいかがでしょうか。
●窯と甕という一連のお話で、とても楽しみでした。今日のお話を参考に楽しんで見てみたいと思います。
●貴重なお話、ありがとうございました。須恵器の須恵の語源が分かったような気がします。古代のロマンに想いをありがとうございます。
●資料もたくさんあって、話もわかりやすく聞きやすかったです。お二人の情熱や一生懸命さも、とても伝わりました。