2023年9月26日火曜日

寺子屋『太平洋戦争と日本の敗北』、大盛況のなか開催‼


9月15日(金)、講堂にて60数名の参加で、青木先生による講演で「いったん戦争を始めるとその終結はいかに困難か」ということを学びました。流石、恒例の青木先生登場とあって、会場は満席でした。テーマは表記の内容で、少なからず重たい中身でしたが、青木先生のお話に参加者全員が圧倒され 、太平洋戦争に至る国内外の状況や戦争終結に至る経過等について、時系列の説明や当時の軍部による一方的な国民への情報提供の有り様を示す報道の肉声・国民を鼓舞する戦時歌謡を交えての紹介もあり、あっという間の90分でした。

以下、青木先生による講演の概要をまとめてみました。

日本の中国侵略の延長上に太平洋戦争があることから「15年戦争」とも呼ばれます。1931年9月18日、満洲(中国東北部)の奉天(現瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、中国軍の犯行と公表することで、満州における軍事展開及びその占領の口実として利用した工作事件(9.18事変・柳条湖事件)を企てました。これを契機とした一連の事件を『満州事変』とされ、以後1945年8月の「終戦」までが15年経過しているために、そう呼ばれています。

1937年7月7日、北京郊外で起きた「盧溝橋事件」より、日中戦争は長期化の様相を呈します。長引く日中戦争の要因に「援蔣ルート」の存在と捉え、1940年からの日本軍の仏印進駐。これによりアメリカからの対日制裁が課せられ、日本へのくず鉄や石油の輸出禁止へと。当時、日本の兵器産業に必要な鉄は、その大半はアメリカからのくず鉄で成り立っており、ましてや石油の禁輸は日本軍にとって死活問題に。

1941年12月7日(米時間、日本時間8日・当日はアメリカは休日)、日本海軍はハワイ真珠湾奇襲。日本陸軍は英領マレー半島上陸作戦。アメリカが準備が整わない間に、日本軍は東南アジア全域を占領するも、1942年6月以降、ミッドウェー海戦敗北より戦況は悪化の一途。この海戦の結果、日本は4隻の航空母艦、約300機の航空機と数百人の技量の高い搭乗者を失い、以後の弱体化の懸念が現実のものに。因みに、昭和天皇に弟の高松宮が「海軍は基幹兵力を失ったから、この戦争は『駄目』である。終戦のご決意を」と上奏とも。

1944年には、東京まで2300kmのサイパン島が陥落、以後日本本土空襲の本格化。東条内閣総辞職後の小磯内閣では、国民に『一億玉砕』と鼓舞。1945年になると硫黄島にて日本軍守備隊はほぼ全滅。3月には米軍が沖縄上陸で軍民合わせて約20万人が犠牲。近衛文麿が天皇に上奏、「敗北は必至 早期終戦しないと協賛革命が起こる」と。とはいえ、「もう一度戦果を挙げてからでないと難しいだろう」とも。当時、日本はソ連を仲介として和平を期待していたが、実は2月に米・英・ソの首脳によるヤルタ秘密協定が締結されており、その内容は『ソ連の対日参戦と引き換えに、樺太南半分と千島列島のソ連領有を米英が承認する』というもので、日本の情勢把握の失態ともいえます。7月26日にはポツダム宣言が発せられ、日本に降伏を要求すると同時に強大な破壊力を持つ兵器の使用を示唆しました。鈴木貫太郎内閣は「黙殺」との声明を発するも、同盟通信社は「ignore・無視」と翻訳、ロイターとAP通信は「reject・拒否」と報道され、8月6日広島に原爆投下に繋がり、当初8月11日予定のソ連参戦が8月8日に早められました。日本政府は敗戦必至の情勢の中、アメリカとの「天皇の存続」密約を受け、ポツダム宣言受諾を決定。戦争終結に向けて、日本政府の方針は国民の命の安全を確保するためではなく、あくまでも『国体護持』にあったことは明白です。

参加者の皆さんは、終始、青木先生のお話に熱心に聞き入っていらっしゃいました。講演後も多くの方々が、青木先生を取り囲んで質問が交わされ、大変盛り上がりを実感しました。講演の中で、南満州鉄道の列車の特急や準急の名称が、「ひかり」「のぞみ」であったことが紹介されると皆さんビックリ。こうしたたくさんのエピソードが先生のお話に盛り込まれておりまして、分かりやすいお話とともに,青木先生に期待されている方々が沢山いらっしゃいます。12月16日に人権講座「ヒトラーに抵抗した人々」というテーマで、再度、青木先生に講演をお願いしております。。皆さんのご参加をお待ちしております。【文責 新村】